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戦後のアーセナル ー失われた栄光と未来への足音ー

 なんで休みってこんなにあっという間なの・・・。

 

 先日は第2次世界大戦前のアーセナルについて書いたので、今日は戦後のアーセナルについて書こうかと思います。


戦後のアーセナル

 

 第2次世界大戦後、アーセナルジョージアリソン監督が続投し同じ選手たちと復活を果たしたが、1930年代の頃のような輝きはすでに失われていました。

 

 栄光のアーセナルを支えたクリフバスティンテッドドレイクの引退はチームの戦力に大きなダメージを及ぼしたのです。

 46/47シーズンは降格の危機に瀕し、最終的には13位という結果でシーズンを終えました。

 

 当時60代半ばであった監督のアリソンは引退を決意、後任には彼のアシスタントであったトム・ウィテカーが就任しました。

 

 すると、47/48シーズン、アーセナルマンチェスターユナイテッドに7ポイントの差をつけリーグ優勝を果たしました。さらに2年後、決勝でリバプールを2-0で破り、アーセナルFA杯のタイトルも獲得しました。

 

 当時のチームには前任のアリソンが獲得したジョー・マーサーがいました。彼は俊足を活かして左サイドハーフを蹂躙し、1954年4月10日のリバプール戦でチームメイトのジョー・ウェイドと衝突して骨折するまでの間、アーセナルで275試合に出場しました。

 

 51/52シーズンはリーグ戦とカップ戦のダブルを狙いましたが、リーグ戦は、マンチェスターユナイテッドに、カップ戦は、ニューカッスルユナイテッドに阻まれ、無冠で終わる形となりました。

 

 翌52/53シーズン、アーセナルはリーグ優勝を果たしますが、このシーズンはアーセナルとプレンストンが僅差で最後まで争い、最終的には平均ゴール差0.099でアーセナルが栄冠を勝ち取りました。(公式サイトの英文を確認しましたが、おそらく、「勝ち点」同点で、「1試合当たりの平均ゴール数」の差が0.099でアーセナルが優勝した。ということかと思います。)

 

 そして、この優勝の後、アーセナルは17年間にわたりタイトルから見放されることになります。

 

 1956年末にウィテカーが亡くなった後、クラブはジャック・クレイストンジョージ・スウィンティンを監督として起用したが、どちらも栄光を取り戻すことはできず。実際、17年のリーグ戦の中で最も成績が良かったのは、スウィンティン体制1年目の3位でした。

 

 その後、クラブは方針を転換し、1962年にビリー・ライトを監督に招聘しました。彼は選手時代、ウルブズとイングランド代表のキャプテンとして素晴らしい実績を残していましたし、少年時代はアーセナルのファンでもあるという人物でしたが、監督としてのキャリアはほとんどありませんでした。

 しかし、ライトはボブ・ウィルソン、フランク・マクリントックジョー・ベイカといった選手を獲得し、クラブのユースチームも1966年にFAユースカップで優勝、リーグ戦とカップ戦のダブルへの準備は着々と進んでいました。

 

 ライトの後には、クラブの理学療法士だったバーディ・ミーが監督に抜擢されました。パット・ライス、ジョン・ラドフォード、レイ・ケネディチャーリー・ジョージといった選手たちの育成に乗り出した彼のチームは、60年代、カラバオカップ決勝に進取しては敗退を繰り返していました。

 

 そして、クラブは栄光の70年台へと突入していくのです。

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 以上、戦後のアーセナルについての話でした。

 

 大半はクラブの公式ページ(英語)に記載されていますが、間違いなどがあればコメントをいただけますと幸いです。

参考・引用:https://www.arsenal.com/history/post-war-arsenal/post-war-arsenal-overview

www.arsenal.com

 

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