月曜が祝日だったおかげで、今週は仕事が4日しかないの、最高ですね。来週も金曜が祝日なので4日しかないし、これがデフォルトになればいいのに。
さて、今日は私の推しクラブであるアーセナルの歴史、その創成期について、書いていこうかと思います。
はじまりは1886年。
ロンドンのウーリッジ地区にあった王立造兵廠(the Woolwich Arsenal Armament Factory)の労働者の集まりがフットボールチームを結成しました。
造兵廠という言葉、聞きなれませんが調べてみると、旧陸海軍で,兵器・火薬その他の軍需品の研究・製造・修理などを担当した役所および工場という意味だそうです。
チームの名前は「ダイヤルスクエア(Dial Square)」。工場の入り口にある日時計がその名前の由来です。
最初の試合は1886年12月11日。イースタンワンダラーズと対戦し、6-0での勝利を収めました。
そしてその後すぐに、チームの名前を王立造兵廠を意味する
「ロイヤルアーセナル(Royal Arsenal)」
に変更しました。
アーセナルと言えば赤いユニフォームですが、創成期に加入したノッティンガムフォレスト出身の選手たちが元の所属であるフォレストにあった予備の赤いユニフォームを求めたのが始まりです。当時のフォレストはこれに正式に応じ、アーセナルのユニフォームはそれ以来、赤に染まることになりました。
ちなみに、ノッティンガムフォレストですが、現存するイングランドのプロクラブとしては2番目に古く、1970年後半にはUEFAチャンピオンズカップ(現CL)で2年連続優勝もしているんですね。
初期のアーセナルは、プラムステッド地区(the Plumstead area)のグラウンドをいくつか行き来して利用していましたが、1887年9月、2年目のシーズンで、プラムステッド沼地(Plumstead Marshes)に引っ越し、近くのスポーツマンパブにちなんでスポーツマングラウンド(Sportsman Ground)と改名しました。
このとき、はじめてのロンドンシニアカップにも出場しています。(第2戦のバーンズ戦で敗北。)
1888年、スポーツマングラウンドが洪水に見舞われるという事態となり、クラブは翌シーズンに近くにあったマナーフィールドに移転し、マナーグラウンド(Manor Ground)と改名されました。
プラムステッド地区は、ロンドン南東部にあるエリアで、ウーリッジの東に位置し、現在のグリニッジ王立特別区内にあります。
1890年、クラブは再度本拠地の移転を決定し、スタンド、テラス、更衣室を備えたインビクタグラウンド(Invicta Ground)に移転しました。1891年、プロのクラブとなり、1893年、クラブは
「ウーリッジアーセナル(Woolwich Arsenal)」
と名前を変えました。
その後、インビクタグラウンドの賃上げにより、クラブはマナーグラウンドへと戻ることになりました。このとき、フットボールリーグ2部に加盟しています。
1904年、クラブは1部への昇格を果たしましたが、プラムステッドは集客という点で立地が悪く、財政が悪化。1910年には破産状況に陥り、フラムの会長であったヘンリーノリスに買収されました。(当時、チェルシーの平均観客数が28,000人に対し、アーセナルは11,000人。)
1913年、クラブは2部に降格し、ノリスはクラブの本拠地をハイベリーへと移転させました。1914年、クラブの名称から「ウーリッジ」が外され、それ以来、
「アーセナルFC」
として知られていくことになります。
第一次世界大戦が終わり、1919年、シーズンを5位で終える形になりましたが、近隣のライバルであるトテナムを下して1部への昇格を果たします。これが現在のノースロンドンダービーのはじまりですね。
アーセナルはそのうちの1部リーグで新監督レスリーナイトンのもと、まずまずの成績を残します。そして、1925年、会長のノリスは更なる成功を求め、新監督の募集を行うのです。
ここで名前が挙がったのが「ハーバードチャップマン」。彼との出会いが、クラブの未来を大きく切り開いていくことになります。
以上、アーセナルの創成期についての話でした。
大半はクラブの公式ページ(英語)に記載されていますが、間違いなどがあればコメントをいただけますと幸いです。
参考・引用:https://www.arsenal.com/history/laying-the-foundations/laying-the-foundations-overview
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