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ポケモン創成期の話

 私は今31歳になるのですが、物心ついたころからポケモンが身近にありました。今でもゲームはやってますし、カードのコレクションも多少あります。ポケモンスリープは毎日欠かさず計測しています。

 今日はそんなポケモンの創成期についてまとめていきたいと思います。(ゲーム『ポケットモンスター』シリーズの話がメインです。)

 

ポケモンが生まれる前

 数多のポケモンを収集し、育成し、交換し、対戦する。これが皆さんの認識にもあるポケモンのゲームの基本構造だと思います。今や多くのRPGなどでも利用されるこの構造ですが、別にポケモンがはじまりだった訳ではありません。

 1970年代初頭の仮面ライダーカードブーム、1980年代後半から1990年代初頭にかけてのビックリマンチョコブーム、そして、ミニ四駆バーコードバトラーこういった収集、作りこみ、対戦型のコンテンツが後のポケモンブームの礎となったのは間違いないでしょう。

 1983年、後にポケモンの生みの親となる田尻智氏は、東京工業高等専門学校の3年生でした。当時、彼はそれまでの「ゲーム研究の成果」の集大成とも言えるゲーム攻略誌(モノクロコピー誌:ミニコミ誌)ゲームフリークを一人で執筆しました。当時はゲーム攻略本などはあまり売っていない時代で、同人誌専門店に販売を委託した「創刊号」は、彼と同じゲームフリーク(ゲームおたく)たちの間で飛ぶように売れました。当時漫画家を目指していた杉森建も最初の読者の一人であり、すぐに田尻に手紙を送り、今に至る二人の友情が生まれ、2号以降のイラスト担当となりました。その後も仲間は次第に増えていき、それに伴って『ゲームフリーク』の内容は充実していきました。また、うる星あんず(大堀康祐)と中金直彦によるミニコミ界のベストセラー『ゼビウス 1000万点への解法』の再版依頼を受け『ゲームフリーク』別冊として発行し、当時のミニコミ誌としては記録的な部数を達成しました。

 田尻氏はゲーム雑誌を作る傍ら、様々なゲームのアイディアを考案し、セガへ企画書を持ち込んでいました。実際にゲーム制作を検討してくれる人物もいたものの、持ち込んだ企画がゲームとして発売されることはなく、田尻は「自分の手でゲームを作らなければ」と決心しました。

 1989年、田尻氏はゲームフリークの仲間と共にゲーム作品クインティを制作しました。メーカーより提供されるファミコンソフトの開発機材を自作し、3年かけて完成させ、このロムカセットを直接ナムコに持ち込みました。ナムコは田尻らが自主制作した『クインティ』の発売をすぐに決め、結果的に約20万本を売り上げました。1989年4月、田尻はクインティの印税約5000万円から資本金100万円、残りを会社の運転資金にして株式会社ゲームフリークを設立しました。

 同年、任天堂よりゲームボーイ(GB)が発売されました。GBは携帯機の特性上、当初はパズルやアクションゲーム向けの機種とみられていましたが、田尻氏はスクウェアRPG魔界塔士Sa・Ga』の成功を受けて、携帯機でもアクションでない分野で成功できると考えました。

 田尻氏はGBの通信機能に着目し、「交換」をコンセプトにしたゲームの着想を得ました。また田尻氏はウルトラセブンのファンでもあり、同作のカプセル怪獣の影響を受けて「カプセルモンスター」というRPGの企画書を書き上げました。

 田尻氏の企画した「カプセルモンスター」はカプセルトイのようなケースに入ったモンスターが、通信ケーブルを行き来するというものでした。この企画書を任天堂に持ち込み、それを受け任天堂は開発費の援助を決定しました。後に「カプセルモンスター」の名称は、商標権の問題や、略称「カプモン」の語呂の悪さなどから、「ポケットモンスターポケモン)」に改められました。田尻氏はノスタルジーを感じさせる「カプセル」という単語が気に入っており、渋々の断念だったそうです。

 

難航する開発

 こういった経緯で開発が始まったポケモンですが、製作陣の経験不足や、ゲームで最も重要な要素である「交換」への動機付けを見つけられず、開発には長年を要しました。その間、不足した資金を補うため他のゲームを開発するなどの理由で、ポケモンの開発はしばしば中断されました。

 話は少し戻って、1983年、後の株式会社ポケモン代表取締役である石原恒和氏は、西武セゾングループの広告代理店・株式会社SPNに入社、その後、合併によってできた株式会社I&Sへ移り、1985年、日本でのCGプロダクションの草分け的存在であった株式会社セディックに移籍しました。ここで石原氏はコンピュータソフト開発・テレビ番組プロデュースを手がけるようになりました。(セディック在職中の主なプロデュース作品は、フジテレビの深夜番組浅田彰の電視進化論』『TV's TV』、『糸井重里の電視遊戯大展覧会』など。)これらを制作する中で、糸井重里氏やすぎやまこういち氏、そして、田尻智氏らの協力を得ることになりました。

 1991年、糸井重里氏が代表を務める株式会社エイプに入社。入社後は、『ヨッシーのたまご』(開発はゲームフリーク)やMOTHER2 ギーグの逆襲(開発はハル研究所)、『マリオのピクロス』(開発はジュピター)などのプロデューサーを務めました。1993年には、任天堂ゲームフリークと共にマウスでプレイするスーパーファミコンソフト『マリオとワリオ』を開発し任天堂より発売しました。

 そして、1995年、エイプを退社し、株式会社クリーチャーズを設立。ここで石原氏とポケモンが邂逅しました。石原氏がポケモンの開発全体をまとめて方向付けを行う役を担うようになったのです。

 尚、『MOTHERシリーズ』は田尻氏がポケモンを製作する上で参考にしたRPGでもあり、そのためか共通点も多くなっています(RPGでは当時珍しい現代の世界観であることや主人公の設定など)。

 また、ゲームフリークと開発委託契約を結び、石原氏自身がプロデューサーとして数々の企画を任天堂などへと提案していく火付け役ともなりました。

 当初から開発を支援していた任天堂も製品の完成を粘り強く待ち続けました。

 ゲームフリークの制作陣は、当時まだ着目されていなかった「収集、育成、対戦、交換」という要素を徹底的に遊ばせようという方針を定めていました。ゲームボーイの通信機能を活用して「別のソフトとの間で通信を行わないとポケモン図鑑が完成しない」、「(強制ではないが)自分が育てたポケモンで友達と対戦できる」という仕様はその方針の根幹を担いました。

 個々のプレイデータには個別のID(数字)と主人公の名前が与えられ、所有するポケモンに対して「親ID」として働き個々のポケモンをさらに個性化する、という仕様も持たせました。当初はプレイヤーIDによってソフト1本毎に登場するポケモンが異なるという仕様だったが、過剰に複雑化したため、2種類に分けて発売する手法が採られました。また、当時の主流に比べ大容量のバックアップメモリを搭載する仕様に切り替える事で、150種類全てのポケモンの保存が可能になりました。この「ソフトを2種類にわける」、「大容量のカートリッジを採用する」という案は任天堂宮本茂氏(任天堂株式会社代表取締役フェロー)の案でした。

 当初は1995年秋から年末発売予定でありましたが、デバッグなどが遅れ1996年2月27日に繰り下げた後に、開発開始から6年経ってポケットモンスター 赤・緑は発売を迎えました。カラーバリエーションは、マリオとルイージの服の色に因んでおり、後に発売される青は2人の「つなぎ」の色に由来します。

 

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ポケモン発売

 1996年当時、ゲームボーイに限らず、携帯型ゲーム機市場は停滞していました。ゲームギアなどカラー表現が可能な後続機種もほぼ終息状態にあり、テレビゲームには「次世代機」と銘打ちPlayStationセガサターンが既に登場し、発売から丸7年が経過したゲームボーイは時代遅れと見られていました。事実『ポケットモンスター』発売直後の時点でゲームボーイにて発売が予定されていたゲームソフトはわずか3タイトルのみでした。

 市場にはRPGだけでも既に多数のゲームが発売されており、さらに「過去の機種」であったゲームボーイでリリースされる『ポケットモンスター』はさほど大きな期待を持たれず、年末商戦も逃してしまいました。しかし、「収集、育成、対戦、交換」というゲーム要素が徐々にユーザーの支持を獲得し、さらにユーザー間の口コミで爆発的ヒットへ繋がりました。結果的にポケモンは制作側の期待や予測を越えた大ヒットを記録、日本国内での販売本数はゲームボーイ向け『赤・緑・青』で最終的に1023万本となりました。

ポケモンがもたらした変化、そして、進化

 『ポケットモンスター』発売以降、ゲームボーイ市場、ひいてはコンシューマーゲーム市場自体が変化しました。

 他メーカーからの後続ゲームソフトも「収集、育成、対戦、交換」の要素を盛り込んだり、数バージョン同時リリースなど、ポケモンに倣った手法が定番化していきました。任天堂自身もそうしたゲームの開発に力を注いだ他、「ポケモン頼み」のラインナップに切り替えるなどの路線を歩んだ時期もありました。しかし、前者については、各社で販売本数に差が付き、結局はゲームソフトの商品力が販売力を決めることを再認識させることとなりました。

 本作アニメ放映開始後には女子のファンを獲得し、それまで男子中心のゲームボーイユーザーに女子を呼び込みました。少女漫画誌『ちゃお』でのコミカライズも始まったのもこの頃です。また、『クリスタル』からは女の子の主人公を選択できるようになりました。これ以降、任天堂の携帯ゲーム層に女性ユーザーが増加しました。

 1998年には劇場版ミュウツーの逆襲が公開されました。その後、様々な関連商品・事業が作られ、ポケモンは世界中で大人気の日本を代表するコンテンツに至ることとなるのです。

 

以上、ポケモン創成期の話でした。

※24年3月8日時点での情報です。

任天堂ポケモン関連サイト、Wikipediaなどからの情報を抽出し作成しております。間違った情報などございましたらご指摘いただけますと幸いです。